今日は155回芥川賞受賞作、村田沙耶香さんの『コンビニ人間』の書評記事です。
最近はあまり小説は手に取りませんが、タイトルと表紙で思わず一目惚れしてしまいました。素晴らしいですね。
※ネタバレありです。
面白いしすぐ読める(所要1,2時間程)ので、まだ読んでない人はゼヒ読んでみてください。
また、一度読んだけど忘れちゃった方や、一冊読む気はないけど本記事を読みたいという方向けにwikiへのリンクを貼っておきますのであらすじをチェックしてみてください。
それではスタート。
「普通」って何か考えよう
就職、結婚、出産。世間で言う所の「普通」に生きている人たち。
彼らの生き方を、「普通」に生きられない主人公恵子を通して見ることで、「普通」への向き合い方を問いかけられる。
そんな物語だったと感じています。
さて「普通」ってなんでしょうか。
今日はこの「普通」という言葉について考えてみましょう。
「普通」を押し付けられる恵子
幼いころに恵子は、「自分はみんなと違う感じ方をするらしい」ということに気付きます。
そして「それ」は忌み嫌われるということにも。
「どうしたの、恵子? ああ、小鳥さん……! どこから飛んできたんだろう……かわいそうだね。お墓作ってあげようか」 私の頭を 撫でて優しく言った母に、私は、「これ、食べよう」と言った。
「もっととってきたほうがいい?」 近くで二、三羽並んで歩いている 雀 にちらりと視線をやると、やっと我に返った母が、「恵子!」ととがめるような声で、必死に叫んだ。 「小鳥さんはね、お墓をつくって埋めてあげよう。ほら、皆も泣いてるよ。お友達が死んじゃって寂しいね。ね、かわいそうでしょう?」 「なんで? せっかく死んでるのに」
自分の考えを表現するたびに、みんなと同じ考えを、「普通」を押し付けられます。
そのうち恵子は、「普通」にならなければいけないんだと思うようになりました。
そして見つけた、「普通」になるための手段。コンビニ店員です。
恵子はコンビニ店員という完全にマニュアル化された世界の中でだけは「普通」でいられました。
そしてどんどんコンビニ依存していきます。
そのとき、私は、初めて、世界の部品になることができたのだった。私は、今、自分が生まれたと思った。世界の正常な部品としての私が、この日、確かに誕生したのだった。
しかし「コンビニ店員として」だけ人生を送ることはできません。
コンビニ店員としては「普通」でも、ひとりの人間として「普通」になれたわけではありません。
友人や家族や周りの人間と、ひとりの人間として接するとき、そこにはやはり「この人普通じゃない」という目が向けられました。就職、恋愛、様々なものを押し付けられます。
彼とは初めて会うのに、そんなに身を乗り出して眉間に皺を寄せるほど、私の存在が疑問なのだろうか。 「ええと、他の仕事は経験がないので、体力的にも精神的にも、コンビニは楽なんです」 私の説明に、ユカリの旦那さんは、まるで妖怪でも見るような顔で私をみた。 「え、ずっと……? いや、就職が難しくても、結婚くらいした方がいいよ。今はさ、ほら、ネット婚活とかいろいろあるでしょ?」 私はユカリの旦那さんが強く言葉を発した拍子に、 唾液 がバーベキューの肉の上に飛んで行ったのを眺めていた。
でも相変わらず、恵子には何がおかしいのかわからない。
むしろおかしいのは彼/彼女たち。
恵子に押し付けられる「普通」の中には、僕たちが「普通」だと感じることがいっぱいあります。
そしてきっと恵子の周りの人たちと同じように、僕たちも無意識に、他人に「普通」を押し付けている場面がきっとあるのでしょう。
「普通」という名の虚構
大ベストセラー『サピエンス全史』の中で、「人間の特徴は共通の"虚構"をみんなで信じることが出来るところだ」という話があります。
物語に出てくる恵子や白羽以外の「普通」な人たちは、「普通」という共通の虚構を信じている人たち、ということになります。
そして、この虚構にはもうひとつ特徴があります。
それは人間が生み出したものなのに、人間はそれに支配されてしまうことです。
お金などは良い例です。便利に生活するためにお金を生み出したはずなのに、今日ではお金を稼ぐために生活しています。お金に支配されているのです。
「普通」という言葉も同様で、その時代の多数派を言い表すための便利な言葉だったはず。
それがいつしか、「普通」に支配され、「普通」以外を排除するための言葉として機能してしまいます。
「普通の人間っていうのはね、普通じゃない人間を裁判するのが趣味なんですよ。」 白羽
「普通」が「普通」というネーミングであるが故に、それが唯一の正しいことだと勘違いしてしまうのです。
普通以外のものは排除されて当然だ。悪気もなくそう思ってしまいます。
でも忘れてはいけないのは、普通=正しいことではないということ。
それは虚構です。本当は、「普通」なんてありもしないのです。
ダメ、「絶対視」!
「普通」に支配されるということは、「普通」を絶対視しているということです。
そういう人は「普通以外の道」というものを正しく認識できていません。
ではそうならないためにどうすれば良いでしょうか。
キーは「相対化」です。
「普通」だと思う道を相対的に見てみることが大切です。
自分の進路を絶対視していた過去
でも実際、相対化して考えるって難しいですよね。
偉そうに語っている僕ですが、絶対視をしていた過去があります。
「いい学校に行った方がいいよ」
僕は幼いころからそう言われて育ちました。
テストで良い点をとると褒められました。賢いね、偉いね、と。
そんなことを繰り返すうち、こう思うようになりました。
いい学校に行き、いい会社に就職する。それを掴むことこそが「普通の人生」だ。
高校、大学と第一志望に合格すると、周りの人はより一層褒めてくれます。
僕はいつしか「普通の人生」を絶対視するようになっていました。
大学に行くのが「普通」で、高卒は「普通じゃない」。
第一志望に合格するのが「普通」で、落ちた人たちは「普通じゃない」。
部活やってるやつが「普通」で、してないやつは「普通じゃない」。
そうやって無意識にカテゴライズし、「普通の人生」行きの列車から降りていく彼らを蔑んでいました。
でも大学3年のある日、僕もその列車から降ろされることになりました。
留年です。
教室にチラホラいる、見ない顔。
「...留年か。"失敗"したんだな。」
なんて見下していた人たちに自分がなってしまいました。
限りなくショックでした。
普通の人生。それを絶対視していたために、僕はしばらく前を向くことができませんでした。
その場にへたり込み、もう乗ることのできない「普通行き列車」の行く先を見つめ嘆く日々。
もう大学を4年間で卒業する人生、留年というレッテルの貼られていない人生、理想の自分の人生をつかむことはできない。
一時は自殺まで考えたほどでした。
でも、紆余曲折を経て、再び立ち上がることを決めました。
そうして前を向いて歩こうとしたとき、凄まじい衝撃が走りました。
そこにはとても広い景色が広がっていたからです。
僕が思い描いた「普通の人生」というのは、そこに敷かれた一本のレールに過ぎなかった。
そのことに気づきました。
大切なことは、僕はその「普通の人生」をいろいろな他の道と比較をしたことはなかったということ。
周りに言われるがまま、「周りの思う良い人生」をいつの間にか絶対視していたのです。
今までレールの進む先だけを見て、周りの景色なんて見たことがありませんでした。
そこには無数の道があって、行く先だって様々。いろんな人が歩いている。
この世にはいろんな生き方があって、僕の思い描いた人生は数ある生き方の中のたったひとつでしかなかった。
そこには「普通の生き方」なんてなかったのです。
「別にどの道通っても人生じゃん。」
留年して、普通の人生から弾き出されて、初めて僕は人生を相対的に捉えることが出来るようになったのです。
※留年した話 フルver.はコチラ
バッドエンドかハッピーエンドか
長くなってしまいましたが、最後にエンディングについて考えたいと思います。
バッドエンドかハッピーエンドか。両論あるようですが、僕はバッドエンドではないかと思っています。
コンビニこそが生きる場所だとわかった、自分の居場所を見つけた、というのは一見幸せな終わり方です。
ですが、大事なのは「変化できなかった」ということです。
この世にはなにひとつ変わらず存続しているものなんてありません。
変わらないように見えるコンビニですら、変わっていく描写もありました。
そしてなにより彼女自身、変化の必要性を感じていた。
ここ二週間で 14 回、「何で結婚しないの?」と言われた。「何でアルバイトなの?」は 12 回だ。とりあえず、言われた回数が多いものから消去していってみようと思った。 私はどこかで、変化を求めていた。それが悪い変化でもいい変化でも、 膠着 状態の今よりましなのではないかと思えた。
だから一歩踏み出したわけです。
なのに、結局のところ変化することはできなかった。
誰にとっても環境の変化というのはストレスなものです。現状維持はラク。
今回選ぼうとした道は、本当に恵子が進むべき道ではなかったのかもしれませんが、ただそのストレスから逃げ出しただけのようにも見えます。
結局、「老化していく自分がコンビニ店員を続けられるのか」、「普通に近づくためにはどうすべきか」という最初に立てた問いには答えられていません。
また振り出しに戻ってしまいました。
そして彼女自身は振り出しに戻り、変化のない日々に戻ったことをマイナスだと認識していない。
また時間が経つと、先ほどの問いが再び自分の中に生まれてくるのでしょう。
そこにあるのは、ただ時間を失ってしまったという事実。
だからこれはバッドエンドだと感じます。
終わりに
『コンビニ人間』を通して、「普通」について、エンディング(変化の重要性)について考えてきました。
いろいろなことを考えられる本当に良い物語だったと思います。
「普通」という概念で一番損しているのは「普通」という言葉を使っている本人ですよね。
それは可能性を狭めることに他ならないから。
「普通」に苦しめられたら、それを絶対視してしまっている証拠。
落ち着いて相対化して考えてみましょう。
それはいつだって選択肢のひとつにしかすぎません。
おしまい
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