まことです。
先日下のツイートがTLに流れてきました。
今日行ったムンク展でみたこの『接吻』のモチーフで「愛とは個人の喪失である」的な音声ガイドがあったんだけど今まで聞いた愛の定義づけの中で1番真理に近いかもしれない。愛ってのは自分と他者との境界線が曖昧になって、他者の幸せが自分の幸せと融け合う瞬間のことをいうのかもしれないね。 pic.twitter.com/lFgpVw3R9O
— おめが (@PedkQ) November 4, 2018
「愛とは個人の喪失である」。
この言葉、僕は至言だと感じました。
でも時間が経つにつれて「恐ろしい」という感情が強くなってきたのです。
今日はこのツイートから思うことを書き綴っていきます。
個人の喪失 - 僕の場合 -
前置きとして少し自分の話をします。
僕は高校生の頃まで「自分こそが世界のすべてだ」と本気で思っていました。
「自分がいるからこの世界があるんだ」と。
「自分」、「個人」、どこまでもこれ。
映画でめちゃくちゃかっこいい主人公がいたとします。強くて逞しくて。
でもそんな主人公が、「妻と子供だけは助けてくれ、俺はどうなっても構わない!」みたいなことを往々にして言い出します。
感動のシーンであろうにも関わらず僕は途端に冷めていました。
全く感情移入できない。
いやお前が死んだらお前の人生終わりやん、と。
僕は自分の家族をイメージしてみても、自分を犠牲にしてまで助けたいと思える気がしませんでした。
そんな僕が、このブログを一緒に書いているともみさんと付き合い始めて10年になりました。
7年の遠距離恋愛をふたりで乗り越え、念願だった同棲を始めて。
同じ方向を向いて歩み始めました。
楽しい事も苦しい事も本当にたくさん経験してきました。
手放しで信頼してくれる彼女を手放しで信頼して、ともに月日を歩んでいく事で、いつの間にかこうなりました。
僕の楽しみは、ふたりの楽しみ。
僕の未来は、ふたりの未来。
あれほど"自分、自分、自分"だったのに、いつの間にか自分の幸せと同じかそれ以上に、彼女の幸せを大事に思うようになりました。
それこそ危ない目にあったとき、「彼女だけは助けてくれ」と言ってしまいそうなくらいに。
自分の人生がそこで終わっても、彼女を助けるためにあった人生なら満足できる気がします。
(実際は自分の命が惜しくなって言えないかもしれませんけどね。。。)
いつの間にか、当該ツイートの通り、僕は愛を得て個人を喪失していたのです。
これっていいこと?
ここで考えたいのは、これっていいことなのかどうかです。
昔の状態と今の状態と、どっちが幸せなのか。
昔は昔で、「自分の生活」の中に彼女がいました。
好きな人として隣にいて、楽しいことを一緒にして。
でもそれはあくまで「僕の生活の一部分」であり、彼女は「幸せをもらう対象」でした。
それがいつしか、「自分の生活」ではなく「ふたりの生活」となっていきました。
当該ツイートの通り自分と彼女の境界線がぼやけてきて、いつの間にか「幸せをもらう対象」から「幸せを与える対象・ともに幸せを感じる人」へと変化していきました。
怖いことが2つあります。
ひとつめは、その人を失うことです。
人生のうちの長い時間をかけて、これほどまでに大きな存在になってしまった人。
それを失ったときに、果たしてこの人生をひとりで生きていけるのだろうか。生きる気力はわくのだろうかという思いがあります。
自分の目的とふたりの目的の境界があいまいになってきている今、僕は人生の目的、生きる方向性を決めるときに、それを「ふたりの未来」として決めます。
そうやって数々の決断を重ね、ともにその道を歩んでいる途中で、ふと孤独になってしまったとしたら。
僕はまたもとの「個人」として生きていけるんだろうか。そういう不安があります。
よく老夫婦で、片方が亡くなると残された方も追うようになくなるパターンがありますよね。
ちょうどあのような感じで僕もすぐ死んでしまうかもしれないと思うことがあります。
実際は、人間は忘れる生き物であり、慣れる生き物なので、なんとかなるのかもしれないけれど、ちょっと今は想像がつきません。
もし戻ることが難しいとしたら、それは「依存」と同義になり、あまり良いことではないと僕は感じます。
ふたつめは、この「個人の喪失」そのものが怖いです。
幸せのすべてが、意思決定のすべてが、僕個人のものでなく、ふたりのものになっていく。
ふたりの幸せを願い、ふたりのためのする意思決定には、僕という「個人」の価値観は反映されません。
もちろん僕の意志も介在しますが、出てくる答えも、思考の過程も、厳密な「僕」のものではありません。
それを続けているうちに、「僕」という存在がなくなってしまうような気がしてしまっています。
自分という存在が"ふたり"のなかに融けて行ってしまう。
なぜかこの「個人」から「共同体」へという感覚の変化は不可逆なもののような感じがしてしまいます。
どんどんその深淵へ沈んでいく感覚。
さらに言えば、地球という惑星に、人間という生物が居て、自分という一個体がその成員としている。
それを俯瞰してみているような感覚に陥ります。
自分の意識が、人間全体の営みへ、地球の生態系へ回帰していくような感覚です。
宇宙、地球、生命。その大きなストリームの中へ、知らない間にとりこまれていくような。
そのどこにも自我はありません。
思春期から大人の入り口あたりで感じていたあの強烈な自我はどこへ失せたのでしょうか。
そしてそれは果たして、「僕」という「個人」が望んだ生き方だったのでしょうか。
残っている「僕」もいなくなるのでしょうか。
戻ってこようと思えば戻ってこられるのでしょうか。
もしかしたら死ぬ頃には、自分という人間の意識はもうどこにもなくなっているのではないかとという不安が心の片隅にあるのです。
おわり
あのツイートをみた瞬間は、「これだ、よく言い表してくれた!」と嬉しかったのに時が経てば経つほど恐ろしくなってきました。
愛とはこういうものなのか、はたまた僕の愛の感じ方が間違っているのか。
それはよくわかりませんが、これが今現在26歳の僕が愛について考えていることです。
おしまい