こんばんは。まことです。
お正月もそろそろ終わりますね。お正月といえばなにをしますか?家族麻雀という人も多いのではないでしょうか。
僕も中学生で麻雀を覚えてからはよく家族麻雀をやってました。なんだか大人な世界に浸れる時間、それはそれは楽しみでした。そして大学に入ると、麻雀の出来る友人達や雀荘という場を得て、麻雀にどハマりすることになりました👇。
それまでは麻雀をしている時間だけ麻雀のことを考えていたのに、いつしか麻雀していない時間も麻雀のことを考えるようになりました。好きなこと、上手くなろうと思うことであればそれは当然のことでしょう。やればやるほど面白さが見えてきて、強くなりたくて上ばかりを見ていました。
ふと気付くと、はるか下の方に、家族や友人達がいました。そんなんじゃゲームにならない、というような酷い打牌を繰り返す家族や友人達。それでも、あーダメかぁ、とゲラゲラ笑いあい見当はずれな指摘をし合って的外れな議論をしている。
緑のマットを敷いて、牌を握っているだけで非日常な彼ら。一牌ツモってくるたび一喜一憂し、アガるだけアガって、これ何点?ときます。
そのときの僕には、麻雀の価値観を共有できる雀荘の仲間たちがいました。皆が向上を願い、一打一打正着を求め試行錯誤をする仲間。「勝つ」ためにどうすればよいかを議論する。それが僕たちの「楽しい」でした。一方で彼らは、「麻雀をプレイすること」がすでに「楽しい」。だから「勝つ」方策を考えたりしないし、自分がアガれることが楽しい、よくわからないけど点数がもらえることが嬉しいという状態になります。
こんな次元で麻雀と向き合ってる人達には絶対に負けません。さらに、プレイする目的が違うので勝っても楽しくありません。勝ちたいのは僕だけなのです。
もう、同じレベルでは麻雀を楽しめないのだな。
これに初めて気付いたとき、僕はイライラしました。どうして今まで(自分が強くなってきた間に)何も強くなろうとしなかったんだ。そんなんで自分が納得できるのか、と。勝たなきゃ意味ないじゃないか、楽しむだけなんて時間の無駄だ、とも。
でもそれは自分の価値観を押し付けているだけ。彼らは彼らで充分に楽しんでいるのです。僕は「プレイする」だけでは満足せず、「勝つ」ことに楽しみを見出した。彼らは「勝つ」ことよりも「プレイする」ことが楽しい。どっちが偉いとかでなく、ただ個々の価値観があるだけです。
ただ一つ確かに思うことは、寂しいなってこと。
その「プレイするだけで楽しい」ステージには、かつて自分もいたのです。同じように「勝つ」ことよりアガることの方が嬉しかったし、牌を握るだけで非日常でした。家族4人でワイワイ興じていたその遊戯を、僕はひとつ失いました。新しい人に囲まれ新しい楽しみを覚える代わりに、幼い頃一緒に笑いあった空間に戻ることはもう出来なくりました。RPGでレベルが上がれば、冒険の範囲が広がる代わりに、もう初めの街には用事はなくなります。そこにいる人からも、周辺のモンスターからも、なにも有益なモノは得られなくなります。
上を見て、成長していくことは、きっと正しいことだと思うけど、いつもどこかに寂しさが残ります。元いた場所に元通り帰ってくることはできません。
これでよかったんだろうかという気持ちも残る。それをこれでよかったんだと言い聞かせてる。
お正月に家族麻雀やったという話を聞くたびに、いつもこんなことを思います。
おわり