こんばんは、まことです。
前回の記事にも似たようなことを書きましたが、
僕は子供のころに帰りたいと思う気持ちが強いです。
今が一番楽しくなるようにと思って生きていますが、
実際は一番楽しかった少年時代に帰りたくて、近づきたくて、
楽しいことを探しています。
きっともう、こんなことを考えている時点で負けです。
どうやってもあの頃には勝てません。
さて、ではなぜ少年時代はあんなにも楽しかったのでしょうか。
その理由を今日は掘り下げたいと思います。
「意味から強度へ」という言葉をご存知でしょうか。
「意味」はどういうことかみなさんわかると思いますが、
ここでいう「強度」とはその瞬間の"濃密さ"のことです。
簡単に言えば「楽しい」とか「気持ちいい」とかですね。
その行動の意味や是非などを考える間もないほど没頭している状態です。
思い返すに、少年時代というのはすべてが強度のかたまりではなかったでしょうか。
放課後に友達の家でゲーム、校庭でドッヂボール、自転車で大冒険、休み時間に女の子との会話。
その瞬間瞬間の楽しい、であふれていた気がします。
意味など考えたことがない。
勉強ですらも──「今後の役に立つ」という意味を包括しているにしろ──、
体験としては非常に強度的だったように思います。
しかし、歳を重ねるにつれ、何事にも「意味」を求めるようになってしまいました。
日常生活の中で何度思うことでしょう。
──それなんの意味があんの?
と。
その経験から得られるものはなにか、払うコスト(時間、お金)に見合うのか、
直感的にやりたいと思っているか、
など、兎にも角にも「意味」を求めています。
毎日毎日、「強度」だけに埋め尽くされた日々になれば、
きっと僕にも少年時代が帰ってくるような気がします。
でも、現実的には全然無理です。
意味を考えずに行動することなんて、ここ最近で一度も思い出せません。
計画の段階から「楽しいことをやろう」と思っていて、
実行している最中も「楽しことできている」と思っていて、
「ちゃんとできたな、楽しかった」と振り返っています。
どこにも自我を忘れるほど没頭できていない。
僕は大学時代に、死ぬほど麻雀に熱中し、留年し、人生設計が完全に崩れたことがあります。
よくある話かもしれませんが、僕は本当に真剣にやっていました。
留年直後は本当に凹みました。自分を責めました。
なんて馬鹿なんだろう、と。
自分の将来を少したりとも考えず、ただ楽しい麻雀をしてただけ。
そんな自分が死ぬほど大嫌いでした。
でも今となっては、この時の自分がすごく好きなんです。
子供時代を除き、僕が唯一、「強度だけで行動し続けた」期間だから。
まわりの友達に麻雀狂い、麻雀中毒だと揶揄されても気にせず、
中間テストがどれだけ悪くても自分が留年しそうなんて気づかず、、
貯金がバンバン減っていってるのも知らなかった。
麻雀の例でみてもわかるように、「強度だけあればいい」っていうのは危険かもしれません。
まともに俗世で生きることは難しくなっていくでしょうから。
強度だけあればいい、の行きつく先は究極的にはドラッグとセックスなのかもしれません。
映画に出てくるレベルの廃人ですよね。
でもこれも、「意味」で生きる人たちが見るからそう思うのであって、
彼らからすれば楽しいことをずっとやれたのだからいいやって思っているかもしれませんよね。
意味意味意味。
いささか、意味を求めすぎる自分に疲れました。
直近の人生の目標は世界一周です。
でもこれも意味を求めてしまっています。
何かを得られるかな、とか、
この旅の中で次にしたいことを見つけよう、とか。
そうじゃなくもっと強度的な旅にしたい。
しなきゃダメな気がしています。
強度強度強度。
少年時代より強度に溢れた日々を過ごしたい。
おしまい